徳川家康は幼い頃から苦労を重ねながら、乱世を生き抜き260年以上も続いた江戸幕府を開いた人物です。
徳川家康は多くの名言を残しており、現代人でも座右の銘としている方もいらっしゃるようです。
今回は徳川家康の名言とその意味を書いています。
徳川家康の名言
徳川家康は沢山の名言を残していますが、特に、「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し」から始まる『東照公御遺訓』は、広く知られています。
『東照公御遺訓』は、幼い頃から苦労の連続でありながら着実に歩みを進め、やがて天下人に上り詰めた家康の人生観を表しているかのようです。
他にも有名な「ホトトギス」の歌や、『三河物語』などを参考に少しマニアックな名言など、全部で10個の名言を選び紹介させていただきます。
徳川家康の名言①人の一生は
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し、いそぐべからず。
不自由を常とおもへば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。
勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば、害其身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。
東照公御遺訓
≪意味≫
人間の一生というものは、重い荷物を背負って、果てのない遠い道を歩くようなものだ。
長い道のりなのだから、一時的な思いで焦ってはいけない。
不自由であっても、それが当たり前だと思えば、不足を感じることはない。
欲望に負けそうな時は、苦しかった頃の事を思い出すように。
耐えることが無事に長生きするための基本となる。
怒りにかられることは良くないことで、怒りは敵だと思いなさい。
勝つことばかりを知って負けることを知らないのは、害が身に及ぶ危険があるから気をつけるように。
責めるなら自分であって人を責めてはいけない。
やり過ぎより程ほどの方がうまくいく。
≪補足≫
徳川家康の遺訓として広く知られている文章ですが、近年では家康が残したものではないと見られています。
明治時代、幕臣だった池田松之介が徳川光圀の遺訓を元に創作したそうですが、家康のイメージをよく表していると思います。
『東照公御遺訓』が家康のイメージとどう合うのか、補足を書かせていただきます。
徳川家康は数え年3歳で母と生き別れ、6歳で尾張織田氏の人質、8歳で駿府今川氏の人質となり幼少期を過ごします。
また、父は8歳で亡くしますが、その頃には既に松平氏は弱体化しており、家康の意思ではどうにも出来なかった時代であり、家康にとって「重荷を負て遠き道をゆくが如し」という辛く苦しい時期であったと思われます。
ですが、『東照公御遺訓』は悲観的な人生観ではなく、重荷を負いながらも、それを乗り越え解決する家康の肯定的な人生観を表しているように感じます。
その後の家康は、桶狭間の戦いを経て独立を果たすなど自身の力で道を切り開いていきます。
やがて甲斐の武田氏と対峙し、三方原の戦いでは家康の生涯に無い位の大惨敗を喫します。
この様な若い頃の苦い経験によって、家康の忍耐力は培われたものと思われます。
また、後に徳川家康は三方原の戦いを応用して、天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利したとの説もあり、正に「勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば、害其身にいたる」に繋がると思います。
徳川家康は織田信長と共に甲斐の武田氏を滅亡に追い込みますが、本能寺の変が起きて信長が亡くなります。
その後、徳川家康は信長の敵討ちをした豊臣秀吉と天下の覇権を争いますが、結局は屈服して秀吉の家臣となります。
ここで家康が耐え忍んだことで、後に好機が訪れて戦国の覇者へ上り詰めることができ、「いそぐべからず」や「堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ」という言葉に納得できます。
「不自由を常とおもへば不足なし」と困難を乗り越え、天下人となってからも「こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし」と自身を律したのかもしれないと思い、『東照公御遺訓』は本当に家康自身の言葉のように感じます。
徳川家康の名言② ホトトギス
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、いわゆる三英傑の性格を表しているとして有名な「ホトトギス」の歌があります。
一向に鳴かないホトトギスに対し、三人は何をしたかという歌ですが、いつ誰によって詠まれたのか分かっていません。
江戸時代に書かれた『耳嚢』、『甲子夜話』などに掲載されています。
信長、鳴かずんば 殺してしまえ時鳥
とありしに秀吉、なかずとも なかせて聞こう時鳥
とありしに、なかぬなら なく時聞こう時鳥
とあそばされしは神君の由
耳嚢
※時鳥(ホトトギス)
『耳嚢』の著者は、江戸時代中期から後期にかけての旗本であった根岸鎮衛です。
連歌師の里村紹巴の元に信長・秀吉・家康が集まって歌を詠んだようですが、根岸鎮衛本人も本当の話かどうか分からないそうです。
また、三英傑のホトトギスの歌は、江戸時代後期に松浦清(平戸藩藩主)によって書かれた『甲子夜話』という随筆集にも残されています。
なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様
甲子夜話
※杜鵑(ホトトギス)、郭公(カッコウ)
『甲子夜話』には「仮託されたもの」と前置きがあることから、家康ら本人の言葉ではないと思われます。
≪意味・補足≫
織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
ホトトギスの命を奪うという信長の残酷さと短気さも表現されている歌だと思います。
現代でも織田信長は「比叡山の焼き討ち」、「ドクロを肴に宴会」、裏切り者に対する行為などで残虐なイメージを持つ方もも多く、その一方で、信長は家臣を戦で亡くして涙を流して悲しんだり、庶民にも分け隔てなく接したり、このホトトギスの歌のイメージと違った面もあります。
豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
豊臣秀吉は低い身分から天下人になったイメージからか、ホトトギスの歌では工夫が上手そうな人物が表現されていると思います。
豊臣秀吉と言えば、明るい・人たらしというイメージを持つ方が現在は多いかなと思いますが、現代のイメージにも近いホトトギスの歌だと思います。
徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
家康のホトトギスの歌からは、穏やかで度量の広さを感じます。
『耳嚢』、『甲子夜話』共に江戸時代に書かれていますので、家康が一番よく書かれているのは当然に思いますが、辛く苦しい時期を乗り越え、待ち続けて天下人となった家康のイメージに合うホトトギスの歌だと思います。
徳川家康の名言③かごの中の鳥のようなら
駿河の今川氏から独立を果たした徳川家康(当時は松平家康)は、自身の領国である西三河の支配を強化します。
そのような中、家康の家臣団を二分した一向一揆が勃発します(三河一向一揆)。
少なくない数の家臣が家康を裏切っており、家康の家臣であった夏目吉信(広次)もまた一揆方についています。
『三河物語』によると、夏目吉信(広次)は屋敷城を構えて松平伊忠と戦っていましたが、追い詰められて蔵の中に閉じこもってしまいます。
家康は使者を出し、夏目が私に弓を引いたことは憎いけど、「かごの中の鳥のようならもう殺したも同じ」だから助けてやってくれないかと伝えます。
松平伊忠は納得できなかったようですが家康の言葉に従い、また、皆は家康の慈悲深さに感じ入ったそうです。
その後、夏目吉信(広次)は家康の家臣団に復帰し、家康の生涯で最大の敗北戦となった三方ヶ原の戦いの時に、家康の身代わりとなり落命しています。
命を懸けて恩返しをした夏目吉信(広次)は、家康から讃えられ、信誉徹忠の号を与えられています。
徳川家康の名言④主君を諫めようとする志
徳川家康が浜松城にいた頃の話として、「主君を諫めようとする志は一番槍に勝る」との名言が『常山記談』に残されています。
徳川家康が浜松城に在城した期間は、姉川の戦いが起きた元亀元年(1570年)(29歳の時)から、秀吉の妹・朝日姫と結婚した天正14年(1586年)(45歳の時)です。
一番槍を目指す者は武功を挙げられる可能性があり、また、絶対亡くなるとも限らない。
しかし、主人への諫言は聞き入れてもらえず嫌がられたり、罰を受けるなど不幸になる可能性が高い。
それでも諫言をやめない者こそ、真の忠義者だというのがおおまかな意味のようです。
徳川家康の名言⑤滅びる原因は
徳川家康は「滅びる原因は、自らの内にある」という名言を残しています。
徳川家康が生涯で最大級の大敗北を喫した相手は、甲斐の武田信玄です。
徳川家康にとって武田信玄は難敵であり、尊敬する存在でもあったと言われています。
その強さから「甲斐の虎」との異名を持つ武田信玄は、徳川家康の隣国である甲斐や信濃などを治めており、家康は常に警戒が必要でした。
元亀4年(1573年)に武田信玄は病没しますが、家康は宿敵の死を喜びません。
信玄存命中は緊張により緩みはなく軍備を整えましたが、緊張感が解けた時こそ危ないと、より一層気を引き締めたと言われています。
怖いのは敵に滅亡させられるのではなく、「滅びる原因は、自らの内にある」ということだと自戒を込めて家臣に話したそうです。
徳川家康の名言⑥わたしひとり腹を切って
次に書く家康の名言は、『三河物語』に書いてある「わたしひとり腹を切って万民を助けるのだ」です。
織田信長亡き後、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と信長の次男・信雄が対立し、家康は同盟相手であった信雄と共に秀吉と戦います(小牧・長久手の戦い)。
しかし、戦から半年以上経った頃、家康に連絡なく信雄と秀吉が単独で講和を結んでしまいます。
戦の大義名分を失った家康は、秀吉と和睦しています。
その後も家康は、中々秀吉に臣従しません。
そこで秀吉は、妹の朝日姫を家康に嫁がせ、更に母の大政所(なか)まで家康のいる岡崎に送ります。
以下、『三河物語』を参考に書いていますが、事実上の人質が送られてきたことで、家康は「それでは上洛しよう」と言い、酒井忠次は家康に考え直すよう進言しています。
断交になっても良いからと言う酒井忠次らに家康は「わたしひとり腹を切って万民を助けるのだ。わたしが上洛しなかったら断交になる」と忠次らを説得します。
そして、もし家康が切腹させられたら、大政所に腹を切らせ、朝日姫は助けて帰すよう言い伝えます。
その理由は「家康は女房を殺して腹を切った」となっては世間の評判も悪く、後の世まで噂されるからだそうです。
徳川家康の名言⑦勝って兜の緒を締めよ
徳川家康は、豊臣秀吉亡き後に起きた、天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利します。
しかし、家康は浮かない顔をしていて、「勝って兜の緒を締めよとはまさに今のことだ」と言います。
「勝って兜の緒を締めよ」という言葉は、北条氏綱の遺言として知られています。
ここで徳川家康が「勝って兜の緒を締めよ」を引用したのは、油断をしないためとも解釈できますが、本当に気を引き締めてい場面だったと思われます。
それは、関ヶ原の戦い後、敵方の総大将である毛利輝元は大坂城にいたので、豊臣秀頼を擁して籠城戦をする可能性もあります。
なので、気持ちを緩めることはできず、「勝って兜の緒を締めよとはまさに今のことだ」と言ったのではないかと思います。
徳川家康の名言⑧上を見な 身のほどを知れ
徳川家康は乱世を終わらせて戦国の覇者となります。
ある日、家康は近習たちに身を保つ教えとして、「上を見な(見るな)」、「身のほどを知れ」という言葉を紹介します。
着実に一歩づつ勢力を伸ばし、やがて天下人となった家康らしい言葉に思えます。
徳川家康の名言⑨平氏を亡ぼす者は平氏
徳川家康は驕り高ぶる者は身を亡ぼすとの自戒があったようで、「平氏を亡ぼす者は平氏なり 鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり」との名言を残しています。
自分をダメにするのは自分自身だという考えは現代にも通じますね。
徳川家康の名言⑩天下は天下の天下なり
徳川家康は大坂の陣において豊臣宗家を滅亡させ、その翌年に亡くなりました。
二首の辞世の句の他に、「天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり」という遺言を残しています。
家康は命が尽きても秀忠がいれば安心だと言います。
ですが、将軍の政が理にかなわず、多くの民衆が苦しむようであれば、誰でもよいので交代するべきであるとの考えを伝えます。
「天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり」
つまり、天下は一人の為の天下ではない、天下は全ての人々の天下なのだと。
そして、家康の子孫でない者が将軍として政を行っても、人々が豊かであるならば恨みに思わないと遺言したそうです。
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