織田信長が自害したことで有名な本能寺ですが、本能寺が所有する宝物を、本能寺の境内にある大寶殿(だいほうでん)宝物館に展示しています。
三脚の蛙で知られている「三足の蛙」や織田信長ゆかりの宝物も所蔵しており、織田信長が所有していたと伝わる刀など、本能寺が受難を受けながらも宝物を後世に伝えた話の記事です。
また、種子島や堺には法華宗信者が多いことから、本能寺と鉄砲の結びつきが強かったそうです。
織田信長も本能寺を利用し、鉄砲の入手ルートを持っていました。
本能寺の受難と守られた宝物
受難と再建の繰り返しであったという本能寺の歴史について簡単に記します。
本能寺は、1415年(応永22年)に「本応寺」(ほんのうじ)という寺号で建立され、後に本能寺と改められています。
その後、妙本寺と対立したことで1418年(応永25年)に破却さ、1429年(永享元年)に再建されます。
後に、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)による焼き討ちに遭いますが、1545年(天文14年)に日承(にちじょう)上人が再建します。
ですが、明智光秀の謀反により「本能寺の変」が起きて火が放たれ、また焼失します。
そして、豊臣秀吉により現在の場所に移転、再建されます。
その後も、「天明の大火」や「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)の火災に遭いますが、その都度再建されています。
そうして、現在ある本堂は1928年(昭和3年)に再建されたものになります。
このように幾多の受難を経て、災難、災害をくぐり抜けて、守られた宝物が本能寺の大寶殿宝物館に展示されています。
大寶殿宝物館にある宝物
入り口はこのような門構えになっています。
また、大寶殿宝物館の読み方は、「だいほうでん」とのことです。
《大寶殿宝物館の1階》
大寶殿宝物館に入ると直ぐに甲冑があります。
この甲冑は、明治時代に織田信長をイメージしてつくられたとのことで、ここで記念撮影もできるそうです。
安土城を復元した模型に、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の人形がいます。
1階はお土産売り場やトイレになっていますので、2階へ向かいます。
《大寶殿宝物館の2階》
2階の入り口のところに飾ってありました。
墨絵師『御歌頭』(オカズ)さんの作品のようです。
博物館の中は写真撮影禁止ですが、刀だけは撮影できると教えていただきましたので、いくつか撮らせていただきました。
《織田信長所持の刀》
一番大切そうに飾っていた刀から紹介します。
信長が所持していたと伝わる刀は、平安時代の刀工である三条 宗近(さんじょう むねちか)の作品とのことです。
有名な刀工が作った信長の刀、正に宝物と呼ぶにふさわしい物だと思います。
《森蘭丸の刀》
この刀は、信長の家臣である森成利(もり なりとし)(蘭丸)の刀と伝わっているそうです。
元はあと一寸(3.3センチ)ほど長いそうです。
無銘です。
森成利とは、森蘭丸(もり らんまる)の名前で知られていますが、信長の近習であり本能寺の変で討死した方です。
《森蘭丸の大太刀》
上の刀より大きい刀です。
室町時代の大和国の金房派の作品と考えられているそうですが、無銘と書いてありました。
現存する刀の多くは無銘だそうですが、銘柄がありそうでも特定できないと無銘となるのかもしれないですね。
《眠龍子と村正》
上が「脇差 眠龍子」(わきざし みんりゅうし)、下が「短刀 村正」(むらまさ)とのことです。
村正は、最も有名な刀工名の一つで、「妖刀村正伝説」としても有名です。
徳川家康で知られる徳川家も、村正によって被害を受けたと伝わる「妖刀」村正、持ち主やその周辺に災いをもたらすとも云われますが、多くの偉人に愛用された刀でもあります。
これ等はどれも貴重な宝物といえそうな品ですね。
《信長の肖像画》
その他、狩野直信による「六曲一双 唐人物図扇面貼交屏風」(ろっきょくいっそう とうじんぶつずせんめんはりまぜびょうぶ)、信長が所持していたという「建盞天目茶碗」(けんさんてんもくちゃわん)などの宝物もあります。
今回は見れませんでしたが、信長の家臣の甲冑もあるそうです。
そして、個人的に気になったのが信長の肖像画です。
写真撮影はできませんので、パンフレットを撮影しました。
この肖像画は髭がないのが特徴らしいですが、信長の顔自体が別人のように思えて、こういう感じであった可能性もあるのかなと気になりました。
三脚の蛙で知られる「三足の蛙」
本能寺には、「三足の蛙」(みつあしのかえる)をかたどった金属製の香炉が、宝物として保管されています。
中国から伝来した織田信長愛用の香を焚く器で、銅合金でできた唐銅香炉(からかねこうろ)です。
後ろ足が一本だけの「三足の蛙」は、古来中国では霊力があり、天災を予知する力を持つと信じられています。
縁起ものとして中国から伝来したそうですが、不思議な伝説が残されています。
本能寺の変が起きる前夜、突然「三足の蛙」が鳴いて、迫りくる危機を信長に伝えた…と云われています。
「三足の蛙」は鳴き続けたそうですが、蜀江の錦(しょっこうのにしき)という古代中国の精巧な錦で覆ったところ、鳴き止んだそうです。
怪奇現象のような不思議な話ですが、こうして現存する「三足の蛙」。
本能寺の変という歴史的瞬間を目撃したのでしょうか。
大寶殿宝物館1階にあるお土産屋さんで、本能寺のステッカーが売っているのですが、私が見た時は全て「三足の蛙」のステッカーでした。
三脚の蛙で知られる「三足の蛙」、本能寺が大切にしている宝物のようです。
ステッカーはこちらです。
限定と書いてありましたが、紫になっている色が限定らしいです。
確か…300円だったと思います。
大寶殿宝物館の入観料・営業時間・定休日・アクセス
《入観料》
一般 500円
中学・高校生 300円
小学生 250円
営業時間:9時~17時(入館は16時30分まで)
定休日:不定休、年末年始
※休館の日は緒問い合わせください
電話番号: 075-231-5335
FAX番号: 075-211-2838
住所:〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 MAP
地下鉄東西線「京都市役所前」下車すぐ
鉄砲と本能寺
織田信長は、本能寺に利用価値を感じていたといい、記録から分かるだけでも4回本能寺に滞在していたそうです。
利用価値を感じた理由の一つに、本能寺を経由すると鉄砲を入手しやすかった為だと云います。
本能寺と鉄砲!?
あまり聞かない話かもしれませんが、本能寺は種子島や堺で法華宗の布教活動していました。
種子島といえば、鉄砲が伝来した地で有名ですが、鉄砲伝来より前の1462年頃~1486年頃にかけて、法華宗を布教していたそうです。
種子島氏第14代で島主・種子島時堯(たねがしま ときたか)を筆頭に、全島民が法華宗に改宗したと云われています。
そして、1543年、ポルトガルから種子島に鉄砲が伝来し、鉄砲の生産にも成功します。
種子島氏は、法華宗の有力な外護者となっており、本能寺を通じて室町幕府第12代将軍・足利義晴、管領・細川晴元に、鉄砲と火薬を献上しています。
一方の堺は、応仁の乱以降、日本の物流拠点として栄え、財力のある商人の活躍する町になりました。
鉄砲鍛冶たちが登場し、鉄砲が生産されるようになったそうです。
その堺の貿易商人にも法華宗の信者が多く、本能寺の檀家もいて、京へ鉄砲や火薬を移入するルートを持っていました。
織田信長は、本能寺境内地の安堵の朱印状を出し、代わりに、鉄砲と火薬を手に入れやすくしてもらったそうです。
なので信長は、鉄砲を入手する独自のルートを持っていました。
信長は、武田家滅亡につながる長篠の戦いで、多くの鉄砲を使い、武田軍に勝利したことで知られています。
長篠の戦いで使用した鉄砲は、堺で造られたものであると伝わっています。
また、一説によると本能寺の本堂の下に火薬庫があったと云われています。
火薬庫について確証はありませんが、宣教師・ルイス・フロイスの記録によると、信長が本能寺の地下に大量の鉄砲や火薬を備えていた旨の記載があります。
そう考えていくと織田信長の遺体が見つからないのは、不思議なことではありません。
本能寺が燃え、もしも、地下の火薬に引火したなら、粉々になってしまったと考えられます。
信長の遺体は、推測にすぎませんが…。
現在の本能寺と本能寺の変が起きた当時の本能寺は場所が違うそうです。
こちらの記事は、本能寺の変のあった場所に訪れた記事です
☟
参考・引用・出典一覧 戦国時代ランキング
コメント