明智光秀は、進士家の生まれとする説があります。
進士藤延として生まれ、後に明智光秀と改名したそうです。
確かに光秀の周りには「進士」という名前の人物がいて、関係が深かったとする史料も存在しているようです。
今回は、進士藤延が明智光秀であるとする説についてや、光秀が進士信周の次男とする説について記載しています。
進士藤延とは
明智光秀という名前は殆どの方が聞いたことがあると思いますが、その生涯は謎に包まれています。
特に織田信長に出会う前については、信頼のできる史料では光秀の足跡は殆ど確認できないという状態です。
この時代、負け組についての正確な情報は残りずらいので仕方ないかもしれません。
謎だらけの光秀ですが、不思議な説があります。
光秀と同時代を生きた人物で「進士藤延」(しんじ ふじのぶ)という人がいるのですが、この「進士藤延」とは明智 光秀のことだ!?とする説があります。
※進士は「しんし」という読みもあります。
そもそも進士藤延とは、一体どのような人なのでしょうか。
進士藤延の父は進士晴舎(しんじ はるいえ)といい、進士氏は代々足利将軍家の奉公衆を務めた家柄だと云います。
永禄の変(えいろくのへん)では幕府方として進士晴舎の名前があるそうです。
永禄の変とは、三好義継、松永久通らによって、室町幕府第13代将軍・足利義輝が滅ぼされることになる出来事です。
足利義輝方は抵抗の末、多勢に無勢で足利方の主従全員が滅んでしまったと云われています。
この戦いで進士晴舎の娘で、足利義輝の側室でもあった小侍従(こじじゅう)も命を絶たれました。
小侍従を介して進士家は将軍家と親戚関係にあったと云われています。
小侍従は通称で本名は不明ですが、義輝の子を懐妊していたそうです。
その時、進士藤延も父・進士晴舎と共に永禄の変に参加していたそうで、永禄の変で亡くなった人物に進士藤延の名前も見えます。
進士藤延と明智光秀の関係
ここまでですと、明智光秀とどう関係があるのかという感じだと思います。
しかし本当は進士藤延は生き延び、明智光秀になったと云われているそうです。
後に信長に仕え明智光秀に改名するように命じられたという説と、足利義昭に仕え改名したとする説もあります。
また進士藤延の姉妹で、足利義輝の側室でもあった小侍従は、進士藤延の妹だとされます。
小侍従も実は亡くなっておらず、明智光秀の妻である妻木煕子(つまき ひろこ)になった!?とも云われています。
または、光秀の妹の「ツマキ」になっとする説もあるとか…。
このように異説なのに複数の説があるようで…、もう何だか分からなくなってきますね。
そして小侍従は13代将軍・足利義輝の子供を身ごもっていましたので、その子供は明智光慶(あけち みつよし)になった!?と云われています。
または、明智光慶は足利義輝の遺児だとする説もあるようです。
明智光慶は通説では、明智光秀と煕子の間に生まれた長男とされる人物です。
その上、進士晴舎と明智光秀が兄弟とする説もあるようで、進士晴舎が嫡男、明智光秀が四男だそうです。
実はこうだった、いやこういう説もある…という感じです。
どれも無さそうな話に思えますが…。
ただ、光秀と進士家は密接な関係があるのかもしれません。
例えば「進士」の名前は、光秀の家臣の名前にもでてきます。
光秀の家臣・進士貞連
明智光秀の家臣で進士作左衛門(進士貞連)という名前があります。
進士貞連は光秀の実弟か甥にあたるとする説があり、光秀に改名した進士藤延の代わりに進士家の家督を継いだそうです。
光秀は、後に山崎の合戦でなくなりますが、その後、進士貞連は細川家に仕えたそうです。
細川家とは明智光秀の娘である細川ガラシャの嫁ぎ先です。
細川家は肥後熊本藩主になる家ですが、細川家の記録『細川家記』によると、光秀の死後、進士貞連は細川興秋の家臣になったと記してあるそうです。
進士信周の次男説
「進士」の名前は、光秀の系図にも出てきます。
『明智一族宮城家相伝系図書』に書いてある説ですが、光秀は進士信周(しんじ のぶちか/のぶあき)の次男、又は四男だとする説もあるそうです。
※進士の読みを「しんし」としている書籍もあります。
光秀には沢山の系図が伝わっていますが、どれも完全に一致しなくて、信憑性にも疑問が持たれています。
その複数の系図の内、一つが進士信周の息子説をあげています。
また光秀の母は明智光綱(みつつな)の妹だと云いい、光秀は享禄元年(1528年)の生まれとのことです。
享禄元年(1528年)生まれは、現時点で有力視されている光秀の生年ですね。
このように光秀の家系図は、一致する部分とそうでない部分があります。
また明智光綱とは、光秀の父として有力と見なされている人物です。
そして、進士氏の居城があった美濃石津郡多羅で光秀は生まれたそうです。
また明智光綱には子がいなかったので、進士信周の次男を養子としてもらい受け、その子を明智光秀と改名し家督を継がせたそうです。
そうすると通説通り、光秀は明智光綱の跡継ぎとなり、しかし血縁上は進士信周が父ということになります。
その後、明智光安の後見を受けて明智城に入り、明智城落城後はしばらく浪人したそうです。
明智光安は通説では光秀の叔父とする説が有力視されている人物で、光秀の後見を務めていたと云われています。
その明智光安の母も一説には、進士光信の娘であるとする説もあります。
また、光秀の妻は明智光綱の妹とされ、最初の妻が亡くなると次も明智光綱の妹を娶ったそうです。
そして『明智一族宮城家相伝系図書』によると、明智家と進士家は、何代か前から密接な血縁関係があったそうです。
明智光秀と進士氏の関係の感想
この話いかがでしょうか。
私はちょっと意味分からないと思いました。
異説に複数の説があって分かりずらいですし、そもそも光秀の通説も史料不足で合っているのか分からないのです。
光秀のことは父も生年も定かではありませんので、何とでも言える感じかなと思います。
また進士信周と進士藤延親子の関係は分かりません。
ただ、進士氏が光秀の史料に見えるのは確かなので、光秀と親戚とか何か接点があった方のように思います。
コメント
コメント一覧 (2件)
小林氏の説に賛同します。
進士氏は鎌倉幕府から代々続く名家であり室町幕府の奉公衆で包丁道進士流を代々受け継いでいる。進士藤延の妹は足利義輝の側室である小侍従で二人の女子を産んでいた。永禄の変の時には懐妊中で足利義輝と同じく殺害の標的となってしまった。永禄の変では進士晴舎・進士藤延・小侍従は死んだ事になっている。小林氏の説では進士藤延と小侍従は生き伸びて男の子を産んだ。暗殺の危険がある足利義輝の遺児の為に織田信長の策略である苗字の変更を進士藤延が受け入れて明智光秀に改名し歴史に突如出てきたのだ。進士氏出身の進士藤延は超一流の名家の出自であり明智光秀に一番相応しい人物であると思います。
ご意見ありがとうございます。
貴重な見解を書いていただき、感謝いたします。