豊臣秀頼の父親は豊臣秀吉ではない、当時から噂があったようです。
何故、秀頼の父親について疑念が持たれるのか、秀吉が父親の可能性はないのかについて書いています。
多くの妻妾がいた秀吉
豊臣秀頼の父親は、本当に豊臣秀吉なのか。
当時から疑問に思う声は、あったようです。
それもそのはずです。
豊臣秀吉には、正室である高台院(北政所)の他に、淀殿(茶々)・京極竜子・摩阿姫(前田利家の三女)・三の丸殿(織田信長の娘)・甲斐姫など多くの妻妾がいました。
淀殿(茶々)は、豊臣鶴松と豊臣秀頼の生母となっていますが、淀殿(茶々)以外の女性は、誰も秀吉の子供を身籠った確かな記録がないのです。
豊臣秀頼の父親は、豊臣秀吉でないとする確証もありませんが、秀吉でない人物が父親であるという意見が主流であるように思えます。
この記事では、敢えて豊臣秀吉が父親の可能性はゼロなのかを考察したいと思います。
秀吉の庶子・羽柴秀勝(石松丸)!?
秀吉が織田信長の一家臣として、長浜城主であった頃に子供に恵まれていたという伝承があります。
生母については諸説ありますが、一説には側室の南殿が、石松丸と女児を産んだらしいです。
また、石松丸のことか定かではありませんが、実子の誕生を喜んだ秀吉は、長浜町民に砂金を配ったというエピソードが残されています。
因みに、その砂金を元に曳山が建造され長浜市の「長浜曳山まつり」の起源になったとの伝承があります。
秀吉の実子説のある人物の名前は羽柴秀勝ですが、その幼名が南殿の産んだという石松丸ではないかとの説があります。
また、羽柴秀勝という名前は複数人いるため、石松丸秀勝と呼ばれたりします。
羽柴秀勝(石松丸)と女児が確かに秀吉の子供であるのなら、淀殿が出産した豊臣秀頼らも秀吉の実子の可能性がありそうです。
長浜市にある妙法寺境内には、羽柴秀勝のお墓と伝わる廟堂(豊臣秀勝廟)が残されています。
廟所は調査され「石囲い箱棺墓」が出土したことから、安土桃山時代の大名クラスの埋葬者であると見られています。
当時この辺りで、埋葬者の可能性があるのは、天正4年(1576年)に亡くなった羽柴秀勝ではないかということのようです。
「豊臣秀勝廟」内部にある墓石により、法名は「朝覚」であることが分かります。
一方、羽柴秀勝(石松丸)の実在を疑問視する声もあります。
ですが、秀勝という人物が亡くなっていたこと、秀吉の子供として埋葬されたであろうことは、概ね認めらているようです。
それならば、秀吉に子供がいたのではないかと思いますが、養子の可能性もあり、秀吉に子種のあった傍証にはならなそうです。
羽柴秀勝(石松丸)亡き後、養嗣子として迎えた信長の4男と養子にした甥にも「秀勝」の名前を与えています。
秀吉は「秀勝」という名前に愛着があったと思われ、自身の子に付けた秀勝の名前が気に入っていたのでしょうか。
また、女児については、息災延命を願い、長浜八幡宮に懸仏を奉納したと伝わりますが、こちらも養女の可能性があるようです。
もし、羽柴秀勝(石松丸)と女児が秀吉の実子でなければ、豊臣鶴松と豊臣秀頼が秀吉の実子である可能性も限りなく低くなりそうです。
淀殿 鶴松懐妊で淀古城を与えられる
天正17年(1589年)、淀殿(茶々)は豊臣鶴松を出産します。
子供ができる体質ではないと思われていた秀吉の子を淀殿(茶々)が身ごもったことは、当時の人を驚かせ様々な憶測を呼んだようです。
ルイス・フロイスによると、鶴松は秀吉の子供でないと密かに信じていること、淀殿(茶々)の懐妊は「笑うべきこと」と表記されています。
また、秀吉の子供であると信じる者もいなかったそうです。
鶴松懐妊時に、聚楽第落首事件が起きますが、秀吉に対する批判と淀殿(茶々)の懐妊を茶化す内容であったそうです。
一方の秀吉は、整備した淀古城を淀殿(茶々)に与え、鶴松の産所としています。
鶴松は嫡子としての待遇を与えられており、秀吉自身は不義の子とは思っていなかったようです。
豊臣期の奥御殿は、厳しい管理下にあり、例えば文のやり取りも奥女中に管理されていたそうです。
そのような中、秀吉以外の子供を身ごもる機会があるのだろうかと疑問に思います。
豊臣秀吉公認で浮気をしたとの説もあります。
ですが、そこまでするなら、最初から甥を後継ぎにすれば良いのではと考えます。
また、淀殿の生年が永禄12年(1569年)だとすれば、21歳の時に53歳の秀吉の子供を生んだことになります。
その上、秀吉は親の仇になりますので、淀殿にどこまでの愛情があったのかと考えます。
年の離れた親の仇・秀吉の側室になり、淀殿の生家である浅井家の血筋を残すという考えがあったとしたら、どんなことでもして子供を残すでしょうか。
真実はわかりませんが、鶴松出産により、淀殿は側室ではなく高台院(北政所)の次の妻の待遇を得たという見解もあり、秀吉にとっては実子であったと思われます。
淀殿と鶴松は、大坂城に迎えられ、秀吉の後継者として期待されます。
その後、淀古城で発病した鶴松は、天正19年(1591年)8月、数え年3歳でこの世を去りました。
豊臣秀吉は、鶴松を失い後継者の生母でなくなった淀殿のことを、書状の中で簾中(正妻のこと)と称しています。
鶴松亡き後も、淀殿(茶々)は特別な存在であったようです。
また、豊臣秀吉は、甥・豊臣秀次に関白を譲り、後継者としています。
豊臣秀頼誕生
やがて淀殿(茶々)は、豊臣秀頼(幼名は拾)を身籠ります。
淀殿懐妊中に、秀吉が高台院(北政所)に宛てた書状が残っています。
秀吉は自身の子供は亡くなった鶴松であり、淀殿(茶々)のお腹の子は、淀殿一人の子供にしたらよいと書かれています。
冷たい態度に思えますが、何故でしょうか。
文禄2年(1593年)、淀殿は豊臣秀頼(拾)を出産します。
当時の高貴な女性としては珍しく、淀殿(茶々)は自身の母乳で秀頼を育てています。
秀頼の父親が誰なのか疑った秀吉の報復であるとの見解がある一方、淀殿(茶々)に育てさせてやりたいという秀吉の思いやりであるともいわれ、秀吉の心中は分かりません。
また、秀吉が留守にしてる間に、不祥事が起きたとして、唱門師(陰陽師)を追放し、淀殿(茶々)付きの女中が成敗されます。
豊臣秀吉は淀殿(茶々)の密通を疑い、秀頼誕生に関わった者を成敗したのだろともいわれています。
真実は分かりませんが、もしそうだとしたら淀殿(茶々)本人が咎めを受けていないのは何故なのか、気なります。
豊臣秀頼の生母だから、織田家の姫だからなど意見はあるようですが、天下人になった秀吉の荒い気性を思えば不自然な気もします。
秀吉は淀殿(茶々)を疑っていたのかと思えることがある一方、秀頼が誕生し我が子を抱きかかえた秀吉はとても喜んだとも伝わります。
その後、伏見城築城まで、大坂城本丸御殿には秀吉と高台院(北政所)、二の丸に淀殿と秀頼が暮らし、西の丸には京極竜子が入っています。
文禄4年(1595年)7月、豊臣秀吉は、秀頼誕生前に秀吉の後継者となっていた豊臣秀次を、自害に追い込みます。
理由は定かではありませんが、豊臣秀吉が秀頼可愛さに、甥・豊臣秀次を妻子もろとも葬った事件であると思われます。
豊臣秀次が没したことで、秀頼が秀吉の後継者であると決まり、秀吉は諸大名に血判署名させ、秀頼に忠誠を尽くすよう誓わせています。
淀殿懐妊の頃は冷ややかにも思えた秀吉ですが、秀頼を溺愛する様子が伝わる書状が残されています。
文禄5年(1596年)1月、秀頼から爪取りの刀を贈られた秀吉の返礼では、秀頼にお礼を伝えると共に、早く会って口吸い(接吻)をしたいと伝えています。
秀吉が留守の間に、淀殿(茶々)に口を吸われているだろうと嫉妬と思われる言葉も書かれています。
また、淀殿(茶々)に宛てた書状では、秀頼の次に懐かしく思っているとあり、秀頼を溺愛する秀吉の姿が浮かぶように思います。
秀頼付き女中4名が秀頼の気に障ることをしでかした時は、その女中を縄で縛っておき、秀吉がそちらへいったら、叩き殺そうと恐ろしことも伝えています。
豊臣秀吉は、淀殿(茶々)を疑ったこともあるかもしれません。
ですが、豊臣秀吉の豊臣秀頼に対する愛情を考えると、最終的には秀頼は自身の子供であると思っていたのではないかと思います。
また、秀吉の正室・高台院(北政所)は、秀頼成長後も後見を務めています。
高台院(北政所)にとっても、豊臣秀頼は秀吉の子供であったのではないかと思います。
豊臣秀頼の父親候補
秀吉が秀頼の父親でないとして、秀頼の父親ではないかと推察されている人が数人いるようです。
その中でも有力な候補は、豊臣家の家臣・大野治長であると見られています。
大野治長は、淀殿の乳兄妹で仲が良く、当時から二人の密通は噂されていたようで、記録にも残されています。
また、豊臣秀吉が小柄なのに、豊臣秀頼は身長197cm程の大男に成長しています。
淀殿(茶々)が大きめだったそうで何とも言えませんが、大野治長も高身長だったそうで疑わしい印象を与えているようです。
また、石田三成も父親候補に挙がります。
石田三成は、豊臣政権の五奉行の一人で、関ヶ原の戦いに敗れ捕らえられて、亡き者にされた人物です。
ですが、淀殿(茶々)が秀頼を身籠ったと思われる頃、石田三成は朝鮮にいましたので、無理がありそうです。
その他、美男子であった名古屋(那古野) 山三郎であったともいわれますが、噂の域をでないものと思われます。
まとめ
- 豊臣秀頼の実の父親は分かりません。
- 豊臣秀吉の子供との説がある、羽柴秀勝(石松丸)と女児が本当に秀吉の子供なのかどうかで見解が変わりそうで、今後の研究に期待したいです。
- 豊臣秀頼懐妊時、淀殿に疑いを持ったのか冷たい態度に思える書状があります。
- 豊臣秀頼出産後、淀殿(茶々)付きの女中などが粛清されていますが、秀吉が秀頼の誕生に疑念を持った為とも考えられます。
- 淀殿(茶々)と大野治長(淀殿の乳母の息子)が密通していたという記録があるようですが、史実かは分かりません。
- いつからか、秀吉は秀頼を溺愛するようになり、秀吉自身は、自分の子供であると感じていたのではないかと思います。
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